水道フッ素を巡る全米論争のさなかに示された新たなデータ
米国で「水道水にフッ素を入れるべきか」を巡る対立が激しさを増す中、注目の新研究が発表されました。
コロンビア大学メールマン公衆衛生大学院などの研究チームが、妊娠中に水道水由来のフッ素に多くさらされた母親から生まれた子どもほど、特定の認知能力のスコアが低い傾向にあると報告したのです。
米医学誌アメリカン・ジャーナル・オブ・エピデミオロジーに掲載された内容を、米ニューズウィーク、メディカルエクスプレス、EurekAlert!などの報道を基に解説します。
2500人超を追跡した大規模研究の中身
研究チームが分析対象としたのは、2006年から2019年の間に生まれた2514人の子どもたちです。
研究は米国立衛生研究所(NIH)が資金提供する「ECHOプログラム(環境要因が子どもの健康に与える影響を長期追跡する全米規模の研究計画)」の一環として実施されました。
母親の妊娠中の居住地情報と、その地域の公共水道フッ素濃度の測定データを突き合わせ、子どもが3歳から17歳になった時点でNIHツールボックスという標準的な認知テストを実施しています。
その結果、水道水中のフッ素濃度が1リットルあたり675マイクログラム以上になると、子どものスコアに明確な差が現れ始めることが分かりました。
具体的には、この675マイクログラムを基準として濃度が500マイクログラム上がるごとに、「流動性認知」のスコアが平均3.36ポイント低下する関連が確認されています。
流動性認知とは、問題解決力や記憶力、注意力、新しい状況への適応力を指す概念で、暗記した語彙や知識を扱う「結晶性認知」とは区別されます。
興味深いことに、今回の研究では結晶性認知のスコアには明確な関連が見られませんでした。
また7歳未満の子どもの方が、7歳以上の子どもよりも影響が大きく出る傾向も報告されています。
研究チームは母親の学歴や年齢、妊娠中の喫煙状況、子どもの性別、居住地域の特性など複数の要因を統計的に調整した上でこの関連を導き出しました。
なぜ今この研究が注目を集めるのか
今回の研究が大きな反響を呼んでいる背景には、米国で進行中のフッ素政策を巡る政治的対立があります。
米保健福祉省(HHS)のロバート・F・ケネディ・ジュニア長官は、疾病対策センター(CDC)に対し水道フッ素添加の推奨をやめるよう働きかける方針を表明しています。
すでにユタ州とフロリダ州は州全体で水道水へのフッ素添加を禁止する法律を成立させ、他にも20を超える州で同様の規制導入や上限引き下げを検討する法案が提出されています。
米環境保護局(EPA)も、フッ素のリスクに関する新たな科学的知見を踏まえた規制見直しの検討を進めていると報じられています。
フッ素濃度を巡る現行の主な基準値は次の通りです。
- 米公衆衛生局が虫歯予防目的で推奨する上限:1リットルあたり700マイクログラム
- EPAが定める規制上限(これを超えると法的な違反となる水準):1リットルあたり4000マイクログラム
- 今回の研究で影響が出始めるとされた水準:1リットルあたり675マイクログラム
つまり今回報告された「影響が出始める675マイクログラム」という水準は、推奨上限のすぐ近くに位置していることになります。
水道フッ素添加は1945年に米ミシガン州グランドラピッズで始まり、虫歯予防の公衆衛生施策として長年高く評価されてきた経緯があります。
その効果への評価が根底から揺らいでいるわけではないものの、今回のような研究結果は、推奨水準そのものの妥当性を問い直す材料として政策論争に投じられた形です。
研究の限界と専門家が付けた留保
研究チーム自身も、この結果の解釈には慎重な姿勢を示しています。
筆頭著者のカトリーナ・サイモン氏は「今回の研究は、妊娠中の水道フッ素曝露と子どもの認知能力について大規模な米国サンプルで検証したもので、重要な知見のギャップを埋めるものだ」と説明しています。
共同責任著者のエイミー・マーゴリス氏も「環境中の汚染物質への早期曝露が発達にどう関わるかを調べてきた一連の研究に連なるものだ」と位置づけています。
一方で研究はあくまで観察研究であり、因果関係を証明するものではなく相関関係を示したにとどまる点には注意が必要です。
また今回の手法では公共水道由来のフッ素しか推定できておらず、歯磨き粉や紅茶、一部の食品、ボトル水、井戸水など他の摂取経路は考慮されていません。
実際の総フッ素摂取量とは異なる可能性がある点は、研究チームも限界として明記しています。
なお2019年には、カナダ・ヨーク大学の研究チームが妊娠中のフッ素曝露と3〜4歳時点の子どものIQの関連を報告しており、当時から研究手法への批判や、水中の鉛・水銀・ヒ素など他の重金属の影響を十分に排除できていないとの指摘も出ていました。
今回の研究は対象人数がより大規模である点で説得力を増していますが、同種の懸念は今後も検証が必要な論点として残ります。
フッ素をほぼ添加しない日本の水道事情
日本の読者にとって意外に映るかもしれませんが、日本の水道水にはフッ素はほとんど添加されていません。
戦後の一時期に一部自治体で導入が試みられたものの、賛否両論を経て現在は水道水フッ素化を実施する自治体はほぼ存在しない状態が続いています。
その代わりに日本では、学校でのフッ化物洗口(うがい薬でフッ素を口腔内に行き渡らせる虫歯予防法)や、歯科医院でのフッ素塗布といった局所的な手法が虫歯予防の主流となってきました。
世界保健機関(WHO)の推計では、世界で水道水フッ素化を導入しているのは約25カ国にとどまり、米国はその代表格である一方、日本を含む多くの先進国では異なる予防戦略が採用されています。
このため今回のような「水道水経由のフッ素曝露」を巡る議論は、日本の生活実感とは距離があるテーマだと言えます。
ただし今回の研究が指摘する子どもの発達への影響という論点自体は、フッ素の摂取経路が異なっていても、局所塗布や洗口剤の使用量・頻度を考える上で参考になり得る材料です。
米国の政策転換の行方は、水道水フッ素化を導入する他の国々の議論にも波及する可能性があります。
補足:水道水フッ素化を巡る世界の状況
水道水フッ素化は、虫歯予防の公衆衛生施策として20世紀半ばから世界各地に広がりましたが、その普及度は国によって大きく異なります。
導入状況は国によって大きく分かれます。
- オーストラリア、アイルランド、シンガポールなど:人口の大半をカバーする形で水道水フッ素化を導入
- ドイツ、フランス、スウェーデンなど欧州の多くの国:食塩へのフッ素添加や学校での洗口など代替手段を選択
- 日本:水道水フッ素化はほぼ実施せず、フッ化物洗口や歯科でのフッ素塗布が中心
WHOは適切な濃度管理のもとであれば水道水フッ素化を虫歯予防に有効な手法として評価してきましたが、近年は各国で神経発達への影響を懸念する研究が相次ぎ、再検証を求める声が強まっています。
米国内でも1960年代から70年代にかけて一部で反対運動が起きた経緯があり、今回の論争は決して新しい対立軸ではなく、科学的知見の蓄積とともに繰り返し再燃してきたテーマだと言えます。
まとめ
コロンビア大学などの研究チームは、妊娠中に水道水由来のフッ素濃度675マイクログラム以上にさらされた母親の子どもで、問題解決力や記憶力に関わる「流動性認知」のスコアが低下する関連を報告しました。
この結果は、ユタ州やフロリダ州の水道フッ素添加禁止に代表される米国内の政策転換論争のさなかに公表され、大きな注目を集めています。
研究自体は相関関係を示す観察研究にとどまり、因果関係の証明や総フッ素摂取量の把握といった課題は残されています。
今後はCDCやEPAが専門家タスクフォースの検討を踏まえてどのような指針を示すか、そして他州が禁止に追随するかが焦点となりそうです。
水道水フッ素化をほぼ実施しない日本にとっても、局所的なフッ素利用のあり方を考える上で注視すべき動きと言えるでしょう。
出典:
Columbia University Mailman School of Public Health
EurekAlert!
Medical Xpress