静止した装置が仮想的な超高速回転を作り出し、半世紀前の物理理論を実証
半世紀前にロジャー・ペンローズが提唱した「ブラックホールからエネルギーを取り出す」理論を、米ニューヨーク市立大学(CUNY)の研究チームが実験室で世界初めて再現しました。
装置自体は一切回転していません。にもかかわらず、まるで超高速で回転しているかのように振る舞い、電磁波を増幅させることに成功したのです。
米科学誌Natureに掲載された今回の成果を、Phys.org、ScienceDaily、EurekAlertなど複数の科学メディアが報じています。
ペンローズ過程とは何か – 半世紀前の理論
今回の研究の出発点は、1969年に物理学者ロジャー・ペンローズが提唱した理論です。
回転するブラックホールの周囲にはエルゴ球(事象の地平線の外側にあり、物質が強制的に引きずられる領域)と呼ばれる領域が存在します。
この領域に入った粒子が二つに分裂すると、一方はブラックホールに落下し、もう一方は分裂前より大きなエネルギーを持って脱出できる、というのがペンローズ過程の骨子です。
後にロシアの物理学者ヤコフ・ゼルドビッチは、この考え方を波にも拡張し、高速で回転する物体に波を当てると波が増幅される超放射(スーパーラディアンス)という現象を予言しました。
しかし、実際にブラックホール並みの速度で物体を回転させることは不可能なため、この理論は長年にわたり検証されないまま残されていました。
理論上の正しさと、実験による検証可能性の間には大きな溝があり、ペンローズ過程は「美しいが手の届かない仮説」として扱われてきた経緯があります。
回転しない装置が「超高速回転」を作り出す仕組み
研究チームが開発したのは、リング状に並べた電子共振器のネットワークです。
各共振器の特性を精密なタイミングで次々と切り替えていくことで、リング上を波のように伝わるパターンを作り出します。
これは物体を物理的に回転させているわけではなく、電子的なタイミング操作によって回転を模した「合成回転(シンセティック・ローテーション)」と呼ばれる手法です。
この仕組みにより、装置自体は静止したままでも、波に対しては光速を超える速度で回転しているかのような効果を与えることができます。
実物を光速以上で動かすことは物理法則上あり得ませんが、時間的な操作だけでその効果を再現したところに、この実験の技術的な独自性があります。
こうした時間軸方向の周期的操作はフロケ理論(時間的に周期変化するシステムの振る舞いを扱う物理理論)と呼ばれる枠組みに基づいており、今回の論文タイトルにも「Floquet」の語が含まれています。
つまり空間を回転させる代わりに、時間の使い方を工夫することで同じ物理効果を引き出した、と捉えると分かりやすいでしょう。
実験の成果 – 波のエネルギーは実際に増幅された
研究チームがこの装置に適切な回転特性を持つ電磁波を入射させたところ、波は合成回転からエネルギーを吸収し、実際に増幅されることが確認されました。
論文の筆頭著者ハディセ・ナサリ氏(CUNY先端科学研究センター博士研究員)と共同筆頭著者ハディ・ムーサ氏(元博士課程学生)が実験を主導しました。
責任著者のアンドレア・アルー教授(アインシュタイン記念物理学教授)は、「選択的な回転特性を持つ波が、時間的に操作された合成回転からエネルギーを取り出し、広帯域かつ選択的な増幅を生み出す、新しい波と物質の相互作用の方法を可能にする」と説明しています。
この成果は「Observation of Floquet rotational super-radiance」という論文名で、2026年7月8日にNature誌に掲載されました。
研究は米国防総省、米国立科学財団(NSF)、サイモンズ財団の支援を受けています。
軍関連機関が資金提供元に名を連ねている点からも、この基礎研究がレーダーや通信分野での応用を見据えたものであることがうかがえます。
なぜ重要なのか – 検証不可能だった極限物理への扉
ブラックホールそのものに人類が近づいて実験することは、現在の技術では不可能です。
今回の合成回転技術が持つ意義は、これまで理論の中だけに存在した極限的な物理現象を、地上の実験室で繰り返し検証できるプラットフォームを提供した点にあります。
重力波観測が遠方の宇宙で起きた現象を「観測」する手法だとすれば、今回の実験は同種の物理を地上で「再現」する、いわば別角度からのアプローチと言えます。
光速を超える回転という通常なら実現不可能な状況を、電子的な仕組みを使って時間軸上で作り出すという発想は、他の未検証な相対論的効果を試す実験にも応用できる可能性があります。
宇宙望遠鏡や重力波検出器のような大規模な観測装置を必要とせず、卓上サイズの電子回路で極限物理を扱えるようになった点は、今後の研究の裾野を広げるという意味でも見逃せません。
応用への期待 – 通信・光学・量子技術
研究チームは、この技術が無線通信、古典・量子光学、フォトニクス(光を扱う工学分野)、情報処理といった幅広い分野に応用できる可能性を指摘しています。
従来の増幅器の多くは特定の周波数帯域でしか機能しませんが、今回の手法は広帯域での選択的増幅を実現できるとされ、次世代の通信インフラや量子コンピューティングにおける新しい波操作技術としての応用が期待されています。
基礎物理学の検証実験が、そのまま実用技術の種にもなり得るという点も、今回の研究が注目される理由の一つです。
特に量子コンピューティングの分野では、外部ノイズに強い形で信号を選択的に増幅する技術が求められており、今回のような周波数選択性の高い増幅手法は将来的な部品技術として注目される可能性があります。
補足情報
ロジャー・ペンローズは2020年、ブラックホールに関する理論的業績でノーベル物理学賞を受賞しています。
波を使ってブラックホール的な現象を模擬する試みとしては、音波を使った「アナログブラックホール実験」がこれまでも行われてきましたが、電磁波と合成回転を組み合わせた今回の手法は新しいアプローチとされています。
研究の舞台となったCUNY先端科学研究センター(ASRC)は、ニューヨーク市立大学大学院センターに設置された学際的研究拠点で、フォトニクス分野の研究拠点として知られています。
責任著者のアンドレア・アルー教授は、電磁波を自在に操るメタマテリアル研究の第一人者として知られ、これまでにも「透明マント」技術などで注目を集めてきました。
まとめ
今回の研究は、半世紀前にペンローズとゼルドビッチが提唱した理論を、静止した装置による「合成回転」という新手法で世界で初めて実証したものです。
ブラックホール物理という手の届かない現象を地上の実験室で検証できる道を開いた点、そして通信・光学・量子技術への応用可能性を示した点の両方に意義があります。
今後、この技術を使った他の相対論的効果の検証や、実用デバイスへの展開が進むかが注目されます。
宇宙の果てで起きているはずの物理現象が、身近な電子回路の中で再現できるようになったことは、基礎科学と応用技術の距離を縮める出来事として今後も語られていくでしょう。