英国の書店に足を踏み入れると、日本文学の存在感に圧倒されるかもしれません。
2024年、日本の小説が英国の翻訳文学市場で驚異的な成功を収めています。
ガーディアン紙の最新記事によると、今年の翻訳小説ベストセラーTop40のうち、実に43%が日本の作品だというのです。
この数字は、日本文学が英語圏読者の心をつかんでいることを如実に物語っています。
https://www.theguardian.com/books/2024/nov/23/japanese-fiction-britain-translation
日本文学ブームの背景
1990年代からの下地作り
日本文学の人気は突然現れたものではありません。
1990年代に村上春樹と吉本ばななという2人の作家が英国で注目を集めたことが、今日のブームの礎となりました。
村上春樹は1998年に『ねじまき鳥クロニクル』が英訳出版されて以来、世界的な文学現象となりました。
その独特の文体と、孤独な主人公、ジャズ、猫、そしてファンタジー要素を組み合わせた作品は、多くの読者を魅了し続けています。
一方、吉本ばななは1980年代後半から90年代初頭にかけて『キッチン』や『トカゲ』などの作品が英訳され、個人的な悲劇を乗り越えようとする疎外感を抱えた若い女性を描いた作品で人気を博しました。
現代日本文学の特徴
村上春樹と吉本ばななの作品に共通する要素、すなわち疎外感、シュールレアリズム、社会的期待への抵抗といったテーマは、今日のベストセラー日本文学にも見られます。
これらのテーマが、現代の読者の心に強く響いているのでしょう。
日本文学ブームの現状
ジャンルの多様化
近年の日本文学ブームは、より幅広いジャンルに広がっています。
- ミステリー・犯罪小説: 古典から現代まで、日本のミステリー小説が人気を集めています。湯月朋の『バター』や松本清張の『点と線』がベストセラーリストに名を連ねています。
- 文学フィクション: 村田紗耶香、川上弘美、川上未映子など、女性の視点から描かれた文学作品が注目を集めています。
- 癒し系小説: 書店や図書館、カフェを舞台にした心温まる物語が大きな人気を博しています。
女性作家の台頭
グランタ社の編集者ジェイソン・アーサー氏は、村田紗耶香の『コンビニ人間』の出版を「分水嶺となる瞬間」と表現しています。
この作品を皮切りに、村田の3作品が50万部以上を売り上げるという驚異的な成功を収めました。
日本文学研究者のアリソン・フィンチャー氏は、「出版社は『次の村上春樹を』と言っていたのが、『次の村田紗耶香を』と言うようになった」と指摘しています。
これは、日本文学の受容が変化していることを示しています。
「癒し系小説」の台頭
英国の翻訳日本文学ベストセラーの半数以上を占めるのが、いわゆる「癒し系小説」です。
これらの作品は、書評ではあまり取り上げられないものの、驚異的な売り上げを記録しています。
ダブルデイ社の副出版者ジェーン・ローソン氏は、この「癒し系小説」が若者から高齢者まで幅広い層に支持されていると指摘します。
インスタグラムやBookTokなどのSNSの影響で、これらの作品が「クール」な要素を持つようになったと分析しています。
日本文学ブームの課題と展望
ジャンルの偏り
日本文学研究者のアリソン・フィンチャー氏は、英国で人気の日本文学のジャンルが「厳選されている」と指摘します。
ミステリー、若い女性を主人公とした文学小説、癒し系小説が主流である一方で、日本国内で人気のあるSF、超自然現象やホラー、ロマンス小説、歴史小説(特に時代小説)などはあまり紹介されていません。
これは、英語圏の読者の嗜好に合わせて作品が選ばれているためと考えられますが、同時に日本文学の多様性が十分に伝わっていない可能性も示唆しています。
「快適な他者性」の魅力
東アジア文学を専門とする文学エージェントのリー・カンチン氏は、現代日本文学の魅力について「都市を舞台にしていることが多い」と指摘します。
この都市の風景が英語圏の読者にとって馴染みやすく、かつ東洋という要素で少し異国情緒があるという点が魅力だと分析しています。
これは「快適な他者性」と呼べるかもしれません。
完全に異質ではないけれど、ほんの少し異なる世界観が、英語圏の読者を惹きつけているのです。
日本文学の特徴
翻訳者の竹森ジニー氏は、日本文学の特徴として「判断的でない」点を挙げています。
西洋文学が善悪の二元論に焦点を当てがちなのに対し、日本文学では善悪の境界がより曖昧で、悪役にも良い面があり、善人も欠点を持っているという描写が多いのです。
また、小説の結末もオープンエンドが多いという特徴があります。
つまり、物語が明確な結論や解決に至らず、読者の解釈に委ねられる終わり方が多いということです。
これは、読者に考える余地を与え、物語の余韻を楽しむことができる手法です。
西洋文学が明確な結末を好む傾向があるのに対し、日本文学ではこのようなオープンエンドの結末が比較的多く見られ、読者の想像力を刺激し、物語の余韻を長く楽しむことができる特徴となっています。
これらの特徴が、現代の読者の複雑な心情に寄り添っているのかもしれません。
ブームの持続性
文学エージェントのリー・カンチン氏は、出版業界には常に波があると指摘します。
「猫本」のようなトレンドは一過性かもしれませんが、質の高い日本文学作品は残り続けるだろうと予測しています。
例えば、八木詠美の『空芯手帳』のような作品は、文学研究の対象になる可能性があるとカンチン氏は述べています。
日本文学の翻訳をめぐる課題
翻訳者の役割
日本文学ブームの裏には、優れた翻訳者たちの存在があります。
竹森ジニー氏、ルーシー・ノース氏、アリソン・マーキン・パウエル氏らは「Strong Women, Soft Power」というグループを立ち上げ、より多くの女性作家の作品を翻訳する取り組みを行っています。
しかし、フィンチャー氏が指摘するように、翻訳される作品の男女比率はまだ完全には平等ではありません。
2023年にはほぼ同数でしたが、2024年は再び男性作家の作品が多くなっているそうです。
マーケティングの影響
出版社のマーケティング戦略が、日本文学の受容に影響を与えている面もあります。
例えば、「猫」をモチーフにした表紙デザインが売り上げに直結するため、実際には猫が登場しない作品でも猫の絵が使われることがあるそうです。
これは日本文学の多様性を正確に伝えているとは言えず、ステレオタイプを助長する危険性もあります。
まとめ
英国における日本文学ブームは、1990年代から続く長い過程の結果です。
村上春樹や吉本ばななによって築かれた基盤の上に、現代の多様な作家たちの作品が花開いています。
ミステリーや文学フィクション、そして「癒し系小説」と呼ばれるジャンルが特に人気を集めていますが、同時に日本文学の多様性が十分に紹介されていない課題も浮き彫りになっています。
日本文学の特徴である「判断的でない」描写や、オープンエンドの結末は、現代の複雑な社会を生きる読者の心に響いているようです。
また、都市を舞台にしながらも東洋的な要素を持つ「快適な他者性」も、日本文学の魅力の一つと言えるでしょう。
このブームが一時的なものなのか、それとも長期的なトレンドになるのかは未知数です。しかし、質の高い作品は残り続け、日本文学が英語圏の読者に新しい視点や感性をもたらし続けることは間違いないでしょう。
日本文学ファンにとっては、これからどのような作品が紹介されるのか、そして日本文学がどのように受容されていくのか、目が離せない状況が続きそうです。