脳の磁気信号を非接触で読み取る新技術、Apple Watchや義肢制御への応用に期待
米Appleが、脳や筋肉の磁気信号を非接触で検出するセンサー技術を開発するスタートアップ「ソネラ・マグネティクス」を買収していたことが分かりました。
買収自体は2026年5月に完了していましたが、公表されたのは9月8日と、実に4カ月近く経ってからのことです。
米MacRumorsや業界メディアTipRanks、AppleInsider、PYMNTSなどが相次いで報じました。
なぜ数カ月も経ってから発覚したのか、そしてこの小さなスタートアップの技術は何に使われるのか、詳しく見ていきます。
ソネラ・マグネティクスとは何か
ソネラ・マグネティクスは、米カリフォルニア州バークレーを拠点とするスタートアップです。
2018年に、当時カリフォルニア大学バークレー校の学生だったニシタ・デカ氏とドミニク・ラバノウスキー氏が創業しました。
2023年にステルスモードから公表され、その際に1100万ドル(約16億円)のシード資金を調達しています。
これまでの累計調達額は2000万ドル(約29億円)、社員数はわずか10人程度という小規模な企業です。
同社が開発する「S1チップ」は、脳や筋肉が発する微弱な磁場を、皮膚に接触することなく検出できる磁気センサーです。
共同創業者のデカ氏はかつて「脳の活動を、心拍数や体温と同じくらい簡単に測定できるようにしたい」と説明していました。
着想の出発点は医療用途でしたが、同社はプレスリリースの中で幅広い応用分野を想定していると述べています。
具体的には、次のような用途が挙げられています。
- 義肢(義手・義足)の高精度な制御
- 神経筋疾患(筋肉や神経に関わる病気)の継続的なモニタリング
- 病気の早期発見につながるバイオマーカー(生体指標)の探索
- スポーツ選手のパフォーマンス計測
いずれも、これまで大型の医療機器でしか実現できなかった計測を、日常生活の中で手軽に行えるようにすることを狙ったものです。
なぜ「磁気」なのか——脳波(EEG)や埋め込み型BCIとの違い
脳活動を外部から計測する技術としては、頭皮に電極を貼る脳波計(EEG、Electroencephalography=脳の電気活動を記録する検査)がすでに広く使われています。
しかしEEGには弱点があります。
頭蓋骨は電気信号を大きく減衰させてしまうため、得られる情報の解像度が低くなりがちなのです。
一方、磁場は骨によってほとんど減衰しないという性質を持っています。
ソネラの技術はこの性質を利用し、電気ではなく磁気を検出することで、より鮮明な信号を非接触で捉えようとするアプローチです。
比較対象としてよく挙がるのが、脳に電極を埋め込む方式のBCI(Brain-Computer Interface=脳とコンピューターを直接つなぐ技術)です。
イーロン・マスク氏が率いるニューラリンクなどが手掛けるこの方式は、高精度な信号を得られる一方、外科手術によるインプラント(体内埋め込み)が前提となります。
手術には感染症のリスクや高額な費用が伴い、対象は重度の身体障害者などに限られてきました。
これに対しソネラの磁気センサーは非侵襲(体を傷つけない)であるため、手術のリスクや心理的なハードルを避けつつ、量産可能な消費者向け製品に組み込める点が最大の特徴といえます。
医療用途に限らず健常者向けのウェアラブル市場にまで応用範囲を広げられることが、Appleにとっての魅力だったとみられます。
買収の経緯とEU規制が生んだ「9月開示」
Appleによるソネラの買収が完了したのは、2026年5月と伝えられています。
それにもかかわらず、事実が明らかになったのは4カ月近くが経過した9月8日でした。
背景にあるのが、欧州連合(EU)の「デジタル市場法(DMA)」(Digital Markets Act=巨大テック企業の市場支配力を規制するEUの法律)による情報開示義務です。
DMAは、Appleのような「ゲートキーパー」に指定された大手テック企業に対し、一定規模の企業買収について欧州委員会への届け出を義務付けています。
今回の開示も、この規制対応の一環として行われた欧州委員会への届け出をきっかけに明らかになったとみられます。
買収金額そのものは公表されていません。
しかしソネラの過去の累計調達額が2000万ドルにとどまり、社員数も10人程度という規模を踏まえると、Appleにとっては比較的小規模な取引だったとの見方が有力です。
なお今回の一件は、Appleが9月1日付でティム・クック氏からジョン・ターナス氏へCEOを交代したばかりのタイミングと重なっています。
15年間トップを務めたクック氏が会長に退き、新体制が始動した直後に明らかになった買収だけに、今後の技術戦略を占う材料として注目度が高まっています。
Appleの健康・アクセシビリティ戦略における次の一手
Appleは過去にも、心拍数や血中酸素濃度の計測技術を持つ企業を買収し、Apple Watchの機能拡張に生かしてきた実績があります。
今回のソネラ買収も、同様の文脈で語られています。
業界関係者の間では、将来のApple WatchやVision Proに神経筋モニタリング機能が搭載される可能性が取り沙汰されています。
想定される応用としては、以下のような機能が候補に挙げられています。
- 筋肉のわずかな動きを検出し、手を触れずに機器を操作するアクセシビリティ機能
- 神経筋疾患の兆候を日常的に検知する健康モニタリング機能
- 義肢利用者向けの、より自然な動作制御インターフェース
Appleは現時点で、ソネラの技術をどの製品にどう統合するかを公式には説明していません。
ただ、健康分野を成長領域と位置づけ、糖尿病予備群向けの機能や睡眠時無呼吸検知など地道な機能拡張を積み重ねてきた同社の戦略を踏まえれば、数年内に具体的な製品機能として姿を現す可能性は十分にあるでしょう。
関連情報——義肢制御からブレインテックまで広がる市場
脳や神経の信号を機器操作に応用する「ブレインテック」分野は、ここ数年で急速に注目を集めています。
ニューラリンクのような侵襲型BCIが重度の身体障害者向けに臨床応用を進める一方、ソネラのような非侵襲型は健常者も含めた消費者向け市場を狙う点で立ち位置が異なります。
医療の現場では脳磁気を使う既存の検査機器として「MEG(脳磁図)」がすでに知られていますが、装置は大型で高額なため大学病院などでの検査に用途が限られてきました。
ソネラのチップ型センサーが実用化されれば、こうした計測を小型ウェアラブル機器に組み込み、日常的に行える可能性が開けます。
GoogleやMeta、Samsungといった競合各社も、スマートグラスやリストバンド型デバイスを通じて生体信号を活用する研究を進めており、脳・神経センシングは次世代ウェアラブル競争の新たな焦点になりつつあります。
まとめ——非接触の脳センシングは日常品になるか
今回の一件は、Appleが非接触の脳・筋肉センシング技術を将来の健康・アクセシビリティ製品に取り込もうとしていることを示す動きです。
買収完了から公表まで4カ月を要した背景には、EUのデジタル市場法という規制環境の変化がありました。
ソネラの磁気センサー技術がApple Watchなどの既存製品に統合されるのか、それとも新カテゴリーの製品として登場するのかは、現時点では不明です。
新CEOジョン・ターナス氏のもとで進む製品戦略の一環として、今後の開発者向け発表やハードウェア発表で関連情報が明らかになるか注目されます。