遺伝子操作も手術も不要、点眼だけで光を取り戻す新技術
バルセロナ生物工学研究所(IBEC)などスペインの研究機関からなる国際チームが、光に反応して視覚を回復させる新しい薬「プロステ6」を開発したと発表しました。
米科学ニュースサイトのScienceDailyやEurekAlert!、Medical Xpressが相次いで報じたもので、失明したマウスやゼブラフィッシュの視覚関連行動が、注射や点眼だけで回復したといいます。
遺伝子治療も外科手術も必要としない、まったく新しいアプローチとして専門家の間で注目を集めています。
「プロステ6」とは何か——光でスイッチが入る分子薬
研究の中心となっているのは、「プロステ6(prosthe6)」と呼ばれる光応答性(光を当てると分子の構造がオン・オフ切り替わる性質)の低分子化合物です。
この技術は「フォトファーマコロジー(光薬理学)」と呼ばれる、比較的新しい研究分野に基づいています。
薬剤が光をきっかけに立体構造を変化させ、網膜内の特定の細胞へ信号を送る仕組みです。
標的となっているのは、光を感じる視細胞(photoreceptor)が失われた後も機能を保っている「ON型双極細胞」と、その表面にあるmGlu6というタンパク質です。
視細胞が変性する病気では、視細胞そのものは死んでしまっても、その後段にある神経回路の多くは生きたまま残っていることが分かっています。
プロステ6は、まさにこの「生き残った回路」に着目し、死んでしまった視細胞の代わりに光の情報を伝える、いわば「人工光センサー」のような役割を果たします。
中でも特に高い効果を示した化合物は次の2種類です。
- プロステ6-12
- プロステ6-15
投与方法も眼球注射だけでなく、点眼薬としての局所投与でも効果が確認された点が大きな特徴です。
点眼という手軽な投与経路が実用化されれば、通院や手術の負担を大幅に減らせる可能性があります。
動物実験で確認された具体的な成果
失明したゼブラフィッシュの幼生にプロステ6を投与したところ、光の動きを追う「サッケード様眼球運動(視標を追うための素早い眼球運動)」が回復しました。
また、加齢黄斑変性(AMD、高齢者に多い視力低下の主要原因)や網膜色素変性症(RP、進行性の遺伝性網膜疾患)のモデルマウスでも、明るい場所を避けて暗い場所を好むという、目が見える動物に特有の行動が復活しました。
特筆すべきは、この回復が室内照明や曇りの日の屋外程度の、ごく普通の明るさの光の下で確認された点です。
これまでの光遺伝学(オプトジェネティクス)を使った視覚回復研究の多くは、強い光や特殊な波長の光を必要とするものが少なくありませんでした。
プロステ6が日常的な明るさの光だけで機能するという事実は、実生活での使いやすさという点で大きな意味を持ちます。
さらに、特殊な装置を用いず、動物への事前の訓練も一切行われていません。
研究チームは、この反応が訓練なしで自発的に生じたと説明しており、脳が新しい視覚情報を違和感なく受け入れたことを示唆しています。
既存の視力回復治療と何が違うのか
これまで視覚障害の治療法としては、主に次の2つのアプローチが研究の中心でした。
- 遺伝子治療——特定の遺伝子変異を持つ患者にしか適用できず、対象はごく一部に限られる
- 電子網膜インプラント——手術による埋め込みが必要な上、費用が高額で長期間のリハビリ訓練も欠かせない
遺伝子治療は原因となる変異ごとに専用の薬剤開発が必要なため、患者ごとにオーダーメイドに近い対応を迫られるという課題があります。
電子網膜インプラントは、失明の原因を問わず使える汎用性はあるものの、外科手術のリスクや数百万円規模ともいわれる費用が普及の壁になってきました。
これに対しプロステ6は、注射や点眼という比較的簡便な方法で投与でき、遺伝子の種類を問わず幅広い患者に応用できる可能性を持っています。
研究を率いたバルセロナ生物工学研究所のパウ・ゴロスティサ教授は、「これらの分子は失明そのものを治すわけではないが、視覚を回復させる効果は極めて高い」と述べています。
視細胞の変性という根本原因を止める治療ではない一方、失われた「見る」という機能そのものを取り戻せる点で、既存の選択肢とは一線を画すアプローチだと言えます。
言い換えれば、病気の進行を止める治療ではなく、失われた機能を分子レベルで「代行」する対症療法という位置づけになります。
対象となる患者数と実用化への課題
研究チームによると、加齢黄斑変性と網膜色素変性症を合わせた患者数は世界で約2億人にのぼるとされています。
これらの疾患による医療費や生産性損失などの経済的負担は、世界全体で年間4000億ドル(日本円で約60兆円)を超えると推計されています。
高齢化が進む日本でも、加齢黄斑変性は失明原因の上位を占める疾患であり、実用化されれば恩恵を受ける患者は少なくないとみられます。
研究成果は米化学会の学術誌「Journal of the American Chemical Society(JACS)」に掲載され、10年以上にわたる開発の集大成だといいます。
現時点でプロステ6は動物実験の段階であり、ヒトでの安全性や有効性はまだ確認されていません。
研究チームはすでに特許を出願しており、臨床応用を見据えたスピンオフ企業「Eyelumina」の設立も進めています。
今後は効果の持続期間を延ばすための製剤改良を経て、資金調達と臨床試験へと進む計画とされています。
新薬開発は一般に基礎研究から承認まで10年以上を要することも多く、実際に患者の手元に届くまでにはさらに長い時間がかかる可能性が高いといえます。
光薬理学とは?他分野への応用にも期待
光薬理学(フォトファーマコロジー)は、光を当てることで薬剤の活性を自在にオン・オフできるようにする研究分野です。
医薬品を光でピンポイントに制御できるため、副作用を抑えながら特定の組織だけに作用させられる利点があります。
視覚分野以外にも、痛みの制御や神経疾患の治療、がん治療における薬剤の局所活性化など、幅広い医療分野への応用が期待されている技術です。
今回の研究には、バルセロナ大学やアルカラ大学、スペイン国立研究評議会(CSIC)傘下の化学研究所など、複数のスペインの研究機関が参加しました。
共同筆頭著者のロサルバ・ソルティーノ氏は、バルセロナ大学で優秀博士論文賞を受賞した経歴を持つ研究者です。
欧州発のバイオベンチャーが視覚医療の分野で存在感を高めている点も、今回の発表が持つもう一つの側面と言えるでしょう。
まとめ——実用化までの道のりと今後の注目点
今回の研究は、遺伝子治療や手術に頼らずに視覚を回復させる新たな選択肢として注目されます。
点眼薬という手軽な投与方法は、将来的に実用化されれば患者や医療現場双方の負担を大きく軽減する可能性があります。
一方で、動物実験の段階にとどまっており、ヒトでの安全性確認や臨床試験には今後数年単位の時間がかかるとみられます。
視細胞の変性そのものを止める治療ではないため、他の治療法と組み合わせて使われる可能性もあります。
スピンオフ企業Eyeluminaの資金調達の行方や、次の研究フェーズの進展に今後も注目です。