英ヘリオット・ワット大学とキリンの共同研究、長年の謎だった香りの正体に迫る
ウイスキー愛好家の間で長年語られてきた「マンゴーのような南国果実の香り」。その正体を英国の大学と日本の飲料大手キリンの共同研究チームが突き止めました。英ヘリオット・ワット大学の研究成果は「Journal of the American Society of Brewing Chemists」誌に掲載され、ITV News、Harpers Wine & Spirit Trade Newsなど英メディアが2026年8月11日から12日にかけて相次いで報じています。
「マンゴー香」とは何か——ウイスキー業界長年の謎
ウイスキーの香りのうち、バナナやリンゴ、洋ナシのようなフルーティーな香りは、発酵過程で生成される「エステル」(アルコールと酸が結びついてできる、果実様の芳香を持つ有機化合物)に由来することが以前から知られていました。しかし、一部の銘柄に特有のマンゴーのような濃厚な南国果実の香りがどこから来るのかは、これまで科学的に解明されていませんでした。研究を率いた同大学国際醸造・蒸留センター(ICBD)のアニー・ヒル教授は「バナナやリンゴ、洋ナシのようなフルーティーな香りは、発酵中に生成されるエステルと結びつけられてきた。しかしマンゴーの香りがどこから来るのかは分からなかった——それが今、分かった」とコメントしています。長年、テイスティングの現場では感覚的な表現として「このウイスキーにはトロピカルフルーツ香がある」と語られてきましたが、その裏付けとなる化学的根拠は乏しく、蒸留所側も偶然の産物として扱うほかありませんでした。今回の研究は、そうした職人の感覚と科学的分析の間にあった溝を埋める試みとして位置づけられます。
14銘柄を分析——鍵を握る3つの化合物
研究チームの博士課程学生タケヒコ・ヒウラ氏は、スコットランドとアイルランド産のウイスキー14銘柄を分析し、香り成分を精査しました。その結果、「アルデヒド」(発酵・熟成過程で生じる反応性の高い有機化合物群)と「アセタール」(アルデヒドとアルコールが結合してできる化合物)が、マンゴー様の香りの強さと相関することを突き止めました。中でも南国果実の香りが際立って強かった1銘柄には、次の3つの化合物が高濃度で含まれていたといいます。
- イソブチルアルデヒド
- イソバレルアルデヒド
- イソバレルアルデヒド・ジエチルアセタール
これら3化合物は単独ではなく組み合わさることで、複雑な南国果実様の香りを作り出していると考えられます。エステルによる「単純な果実香」と、アルデヒド・アセタールによる「複雑な南国果実香」という2層構造が存在することが、今回の分析で初めて浮き彫りになったといえるでしょう。アルデヒドやアセタールは発酵中の酵母の代謝や、樽での熟成中に生じる酸化反応など複数の過程で生成される化合物で、生成量は原料の大麦品種、酵母株、蒸留装置の形状、熟成樽の種類など無数の要因に左右されます。従来、こうした要因は経験則としてしか語られてこなかった分、今回のように特定の化合物レベルまで香りの原因を絞り込めたことは、蒸留プロセスの科学的な最適化に向けた大きな一歩といえます。
「香りを後から足す」実証実験で裏付け
研究チームはさらに、この3化合物が本当に香りの原因物質であるかを確かめるため、マンゴー香がもともと弱いウイスキーにこれらの化合物を意図的に添加する実験を実施しました。その結果、南国果実の香りが顕著に増強されることが確認されたといいます。これは単なる相関関係の指摘にとどまらず、因果関係を実証した点で重要な意味を持ちます。共同研究者のカラム・ホームズ博士は「蒸留所は既存の製造工程を調整するだけで、南国果実の香りを強めたり抑えたりできるようになるだろう」と述べており、今後は経験と勘に頼っていた香り設計が、化学的な裏付けを持つ再現可能な技術へと変わっていく可能性があります。これは新たに添加物を加えるという話ではなく、発酵温度や酵母株の選定、蒸留のカット幅(初留・本留・後留を分ける際の切り分け方)といった既存の製造工程の微調整だけで狙った香りに近づけられることを意味しており、コスト増を伴わずに製品差別化を図れる点が蒸留業界にとって特に大きな価値を持つと考えられます。
なぜキリンが参画したのか——日本のウイスキー戦略との関係
今回の研究に日本の飲料大手キリンが名を連ねている点は、日本の読者にとって特に注目に値します。キリンは静岡県御殿場市の富士山麓に富士御殿場蒸溜所を保有しており、同蒸溜所は年間生産能力1200万リットルという世界最大級の規模を誇り、モルト・グレーン両方のウイスキーを一つの施設で造れる世界でも数少ない蒸溜所として知られています。2020年に発売した看板ブランド「富士」は、発売から3年でシリーズ売上が10倍に伸びるなど国際的にも評価が高まっており、世界的な日本ウイスキーブームの中でキリンにとって競争力の源泉となっています。香りの化学的メカニズムを解明できれば、狙った香味特性を再現性高く造り分けられるようになり、プレミアム路線を強化するサントリーなど競合他社との差別化にもつながる可能性があります。学術研究への早期投資が、将来の商品開発における優位性につながるという業界の動きを象徴する事例ともいえるでしょう。
世界的なジャパニーズウイスキー人気と品質競争
近年、日本産ウイスキーは世界的なブームを追い風に輸出額・評価がともに拡大しており、希少なヴィンテージ銘柄がオークションで高値を付ける事例も相次いでいます。一方で人気の高まりに伴い、原酒の絶対量不足や熟成年数の短い製品の増加といった課題も指摘されるようになりました。こうした状況下で香りの化学的メカニズムを解明できれば、限られた原酒でも狙った香味プロファイルを効率的に再現できる可能性があり、量的制約の中で品質を維持・向上させる手段として注目されます。サントリーなど他の日本メーカーも独自の研究機関を持ち香味分析を続けていますが、海外の専門研究機関と直接連携し学術論文という形で成果を公表した点で、キリンの今回の動きは一歩先んじた事例といえるでしょう。
豆知識——ヘリオット・ワット大学ICBDとは
研究の舞台となったヘリオット・ワット大学の国際醸造・蒸留センター(ICBD)は、エディンバラに拠点を置く世界有数のブルーイング・蒸留研究機関で、スコッチウイスキー業界と長年にわたり密接な関係を築いてきました。同センターの学位課程には世界中の大手酒造メーカーから研究者や技術者が派遣されており、今回のようにキリンやその他海外企業との共同研究プロジェクトも数多く手がけています。ウイスキーの香り研究の分野では、これまでも熟成樽由来のバニラ香や、ピート由来のスモーキーな香りの化学的解明が進められてきましたが、今回のようにフルーティーな香りの中でも南国果実系に焦点を当てた研究は珍しく、業界内でも注目を集めています。
まとめ——経験則が科学的知見に置き換わる時代へ
今回の研究により、ウイスキーの「マンゴー香」の正体がイソブチルアルデヒド、イソバレルアルデヒド、イソバレルアルデヒド・ジエチルアセタールという3化合物にあることが科学的に裏付けられました。これまで職人の経験と勘に頼っていた香りづくりが、今後はデータに基づいて狙った香味を再現できる技術へと発展していく可能性があります。日本からはキリンが研究に参画しており、富士御殿場蒸溜所の今後の商品開発にこの知見がどう生かされるか、また競合各社が追随する動きを見せるかどうかが注目されます。
出典:
ITV News
Harpers Wine & Spirit Trade News
AOL
Heriot-Watt University Research Portal