外部磁石で操作、開頭せず脳深部病変にアクセスへ
脳卒中や脳腫瘍の治療は、頭蓋骨を開く「開頭手術」が避けられないことがほとんどです。
しかしオランダのトゥエンテ大学とラドバウド大学医療センター(Radboudumc)の研究チームが、この常識を覆す可能性のある技術を発表しました。
磁石で操作する極小のねじ型ロボットが、実際の脳組織内を掘り進むことに世界で初めて成功したのです。
本記事では、大学の発表や医療専門メディアMedicalXpressの報道をもとに、この研究の詳細と今後の可能性を見ていきます。
研究の概要——磁石で回転させて掘り進む「ねじ型ロボット」
今回の研究を主導したのは、トゥエンテ大学のエヴォウト・リヒテンベルク氏です。
研究チームが開発したのは、外部の磁石によって回転させることで組織を掘り進む、ねじのような形状の微小ロボットです。
ロボット自体にはモーターや電源を搭載せず、体外に置いた磁石の回転に合わせて自らも回転し、ドリルのように組織を進む仕組みになっています。
体内に配線やバッテリーを持たないため、極めて小型化しやすく、血管のような細い経路にも入り込める点が磁気駆動方式の大きな利点です。
表面には生体適合性のあるコーティング(体内で拒否反応を起こしにくい特殊な被膜)が施されており、企業のLipoCoat社が開発に協力しました。
研究チームはまず、ゼラチンで作った模擬脳組織で4種類のロボット設計を検証しました。
その後、実際のヒツジの脳組織を用いた実験に進みました。
動物の脳を使うことで、硬さや粘性が人間の脳に近い、より現実的な条件での性能を確かめられます。
この成果は学術誌「Advanced Science」に、2026年8月17日付で掲載されています。
実験結果——掘削速度0.2mm/秒、精度1mm未満で標的に到達
実験の結果、ロボットはヒツジの脳組織内を秒速0.2ミリメートルという速度で掘り進むことに成功しました。
数値だけを見ると非常にゆっくりとした動きですが、脳という繊細な組織を傷つけずに進むためには、あえて低速で慎重に掘削することが安全上重要になります。
一方、磁石の回転方向を逆にして自ら掘った通路を引き返す際の速度は、秒速2.9ミリメートルに達しました。
これは新たに組織を削る必要がないためで、往路のおよそ14倍という速さです。
治療後にロボットを速やかに体外へ回収できることは、実際の医療応用を考えるうえで重要な意味を持ちます。
さらにリアルタイムのカメラ追跡を用いた実験も行われました。
ゲル状の模擬脳モデル内でロボットを狙った地点へ誘導したところ、一部の試行で1ミリメートル未満という精度で目標に到達できたことが確認されました。
これほどの精度は、脳内の微細な血管や神経を避けながら病変部に到達する上で重要な意味を持ちます。
従来の定位脳手術(頭部に固定した装置を基準に器具の位置を計算する手術手法)でも同程度の精度が求められており、今回の結果はロボットが臨床レベルの正確さに近づきつつあることを示しています。
カギとなる「同期外れ」現象——血流の有無で安全な速度域が激変
今回の研究で特に重要な発見とされているのが、「ステップアウト周波数(磁場との同期が外れる回転数)」という現象の解明です。
磁気ロボットは外部磁石の回転にロボット自身の回転が同期することで初めて正確に動きます。
しかし磁石を回しすぎるとロボットが磁場についていけなくなり、空転や停止、予測不能な動きを起こしてしまいます。
これは医療用途では患者の組織を意図せず傷つけかねない、見過ごせないリスクです。
研究チームはこの限界点を、無次元数を用いた物理法則の一種である「バッキンガムのπ定理」というモデルを使い、組織の硬さごとに予測できるようにしました。
実験では、柔らかい組織では毎秒約30回転まで同期を保てました。
一方、最も硬い組織では毎秒1回転未満で同期が外れてしまいました。
脳組織単体では毎秒約1.8回転まで安定していましたが、血流を模したポンプで血液を循環させると、その限界は毎秒0.45回転未満まで一気に低下しました。
血液の粘性や流れが生み出す抵抗が、ロボットの回転を妨げる余分な力として働くためと考えられます。
つまり、生きた脳内の血流という要素が、ロボットの安全な操作速度を大きく制限することが明らかになったのです。
これは、ゼラチンなどの静的な模擬組織だけで得られたデータをそのまま実際の患者に適用することの危うさを示す結果でもあります。
リヒテンベルク氏は「磁気ロボットを急がせすぎると、磁石の指示に反応しなくなってしまう」と説明しています。
さらに「今回、どんな組織でも一度の試験からその臨界点を正確に予測できるようになった」とも述べています。
開頭手術に代わる可能性——脳卒中や腫瘍治療への応用
研究チームが思い描く将来像は、血管を通じてロボットを脳の患部まで送り込む治療法です。
具体的には、カテーテル(体内に挿入する細い管)を使って血管内にロボットを送り込みます。
そこから動脈の壁を通過させて、脳組織内の目的地に到達させる構想です。
これが実現すれば、頭蓋骨を開く従来の開頭手術を行わずに、脳卒中による血栓や脳腫瘍、血管奇形などの治療が可能になります。
開頭手術は感染症や出血のリスクが高く、入院や回復にも長い時間を要することが課題とされてきました。
特に高齢者や基礎疾患を抱える患者にとって、全身麻酔を伴う大がかりな手術は身体への負担が大きいという問題もあります。
低侵襲(体への負担が少ない)な血管内治療は近年広がっていますが、脳の深部にある病変には従来のカテーテル技術だけでは届きにくいケースも少なくありません。
磁気ロボットが実用化されれば、こうした届きにくい病変への新たなアクセス手段になると期待されています。
入院期間の短縮や合併症リスクの低減にもつながる可能性があり、医療費の抑制という観点からも注目される技術です。
研究を支えた体制——国際的な産学連携
今回の研究には、トゥエンテ大学とRadboudumcに加え、エジプトのドイツ大学カイロ校やイスラエルのヘブライ大学エルサレム校が参加しました。
医療機器企業のTriticum Medicalも研究に加わっています。
資金面ではオランダ研究会議(NWO)やHealth~Holland、トゥエンテ大学基金などから支援を受けています。
磁力で駆動する医療用マイクロロボットの研究は世界的に活発化しており、各国で関連分野の開発が進められています。
今回のようにロボットの「限界回転数」を組織の硬さから事前に予測できる手法は、脳以外の臓器を対象とした磁気ロボットの安全性向上にも応用できる可能性があります。
まとめ——実用化はまだ先、今後の動物実験に注目
今回の研究は、ヒツジの摘出脳組織という実験室環境での検証です。
生きた動物や人での試験はまだ行われていません。
研究チームも、臨床応用までの具体的な時期は明らかにしていません。
それでも、磁気ロボットが実際の脳組織を掘り進み、ミリ単位の精度で標的に到達できることを示した今回の成果は、低侵襲な脳治療技術における重要な一歩といえます。
今後は生体内での血流に対応できるロボットの改良や、動物を用いた生体内実験の実施が焦点になるとみられます。